海外の高級レストランで、当たり前のように目にするようになった「WAGYU」。この言葉の裏に、日本の和牛が世界を旅し、その土地ならではの姿に進化を遂げてきた物語があることをご存知でしょうか。その中でも特に、目覚ましい成功を収めているのが「タイ和牛」です。高温多湿な気候、日本とは全く異なる飼料環境。決して恵まれているとは言えない条件の中、彼らはどうやって「WAGYU」を誰もが認める一流ブランドに育て上げたのでしょうか。そこには、驚くべき歴史がありました。この記事では、和牛がタイに渡った時期から現代的なサステナビリティへの挑戦まで、詳しく紹介します。タイ和牛の物語には、これからの食品ビジネスのヒントが、きっと隠されています。そもそも「和牛」と「WAGYU」の定義の違いは?海外の和牛需要は、日本食ブームにより拡大しています。出典引用:一般社団法人 日本畜産物輸出促進協会「牛肉輸出をめぐる動向 2022年輸出実績」日本の牛肉輸出額は2021年に初めて500億円の大台を突破し、2022年もそれに準ずる高水準を維持。この輸出額の大部分を牽引しているのが、世界的なブランドとなった「和牛」です。しかし、海外市場に流通する牛肉には「WAGYU」という表記があるのも現状です。では、厳格に定義された日本の「和牛」と、この「WAGYU」は、一体何が違うのでしょうか。日本の「和牛」国が厳格に定める4品種だけの特別な牛日本の「和牛」とは、単に日本で育った牛という意味ではありません。長い年月をかけて品種改良されてきた「黒毛和種」「褐毛和種」「日本短角種」「無角和種」という4つの品種と、その品種間の交配で生まれた牛だけが「和牛」と名乗れます。この定義は法律で厳しく定められており、一頭一頭が血統登録され、徹底した管理のもとで育てられます。私たちが知る「神戸ビーフ」や「松阪牛」といったブランド牛も、全てこの基準を満たした和牛です。美しい霜降りと、とろけるような食感は、こうして守られてきた特別な血統の証なのです。海外の「WAGYU」日本をルーツに世界で進化した牛海外で生産される「WAGYU」は、1970年代から90年代にかけて日本から輸出された和牛の遺伝子(精液や種牛)を元に、海外で繁殖・肥育された牛を指します。その多くは、現地の気候や市場ニーズに適応させるため、アンガス種(米国・豪州)ブラーマン種(タイ)といった、その土地の牛と掛け合わせられています。そのため、日本の純血の和牛とは異なり、赤身の味わいが強かったり、飼育方法や飼料の違いから独自の風味を持っていたりします。日本の和牛をルーツに持ちながらも、それぞれの国で独自の進化を遂げた牛肉、それが海外の「WAGYU」なのです。「Thai WAGYU」誕生と発展の歴史海外で独自の進化を遂げた「WAGYU」。その代表格であるタイは、今や日本産和牛の主要な輸出相手国の一つでもあります。2024年には牛肉輸出量が前年比150%増の712トンに達するなど、その需要はとどまるところを知りません。これほどまでに牛肉文化が成熟したタイで、そもそも「WAGYU」はどのようにして受け入れられ、浸透していったのでしょうか。日本の和牛がタイへ渡った1970年代から始まる、その歴史と進化の道のりを辿っていきます。1. 導入の始まり(1970〜80年代)1970年代以前のタイでは、牛は主に農作業を担う「役用」や乳搾りを目的とした在来種が中心でした。そのため、食肉としての価値、特に日本の和牛のような繊細な霜降りを持つ高品質な牛肉は、ほとんど生産されていませんでした。しかし、国の近代化に伴いタイ政府が畜産政策として「役用牛から肉用牛への転換」を掲げ、肉牛産業の育成に乗り出します。その先進的なモデルとして注目したのが、日本の肉牛改良技術でした。1970年代後半から、黒毛和種(Japanese Black)を中心とする和牛の精液や種牛がタイへ導入され、まずは在来種や暑さに強いブラーマン種との交雑による、新たな肉用牛の育成がスタートしたのです。これが、タイ産WAGYUの壮大な物語の幕開けでした。2. 改良と定着(1990〜2000年代)1990年代に入ると、タイ産WAGYUは「タイの環境に適応する」という新たなステージに進みます。日本の和牛をそのまま育てようとしても、年間を通じて続く高温多湿な気候が大きな壁となりました。そこで生産者たちは、純血に固執するのではなく、現地の環境に強い品種との交雑を積極的に進める道を選びます。特に、暑さや病気への耐性を持つブラーマン種は最高のパートナーでした。和牛が持つ繊細な肉質と、ブラーマン種の強健さを掛け合わせることで、「美味しさ」と「育てやすさ」を両立させた「高級肉+強健性」のハイブリッドなWAGYUが誕生したのです。この頃から「タイ和牛(Thai Wagyu)」という名称が市場に定着し始め、バンコクの高級レストランなどで提供されるようになりました。3. 高級和牛ブランド化(2010年代)2010年代は、世界的な日本食ブームと和牛人気が、タイ産WAGYUを大きく飛躍させた時代です。タイ国内でも本物志向が高まり、プレミアムな牛肉への需要が爆発的に増加しました。この大きな波に乗り、タイの生産者たちは、より日本の和牛に近い霜降りと肉質を持つWAGYUの生産に力を入れ始めます。急増する外国人観光客や、本格的な日本食レストランがその品質を高く評価し、主要な顧客となりました。そして、日本から輸入される高価な和牛と比較して、「コストを抑えられる上に新鮮である」という明確な強みが、タイ産WAGYUのブランド価値を確立。単なる交雑種ではなく、タイを代表する高級牛肉としての地位を固めたのです。4. 現在の展開(2020年代〜)2020年代以降、タイ産WAGYUはブランドとして成熟期を迎え、さらなる進化を遂げています。現在ではバンコクの高級ホテルやレストランで不動の地位を築いていますが、その挑戦は止まりません。一部の先進的な農場では、交雑ではなく日本の黒毛和種の血統を100%維持した「フルブラッド和牛」の繁殖にも成功し、最高級品質の追求が始まっています。さらに、時代の要請である「サステナビリティ」への取り組みも加速。ソルガムや稲わらといった国内飼料で自給率を高め、牛の糞尿からエネルギーを生み出すバイオガス発電を導入するなど、環境に配慮した循環型畜産(バイオガス利用)を実践。品質だけでなく、その生産背景にも付加価値を持たせることで、ブランドをより強固なものにしています。こうしてみると、タイの牛肉市場は魅力的ではありますが、参入にあたっては最新の規制動向を把握することが大切です。タイ政府が2025年7月7日に施行した保健省告示459号「BSEリスクを伴う食品の輸入原則および条件の規定」には特に注意が必要です。出典引用:1979 年食品法に基づき制定する 保健省告示 「BSEリスクを伴う食品の輸入原則および条件の規定」 (一部資料抜粋)この告示により、日本から牛肉及び牛由来成分を含む加工食品(ゼラチンやコラーゲンを含む菓子・飲料、牛由来カプセルを使用したサプリメントなども対象)を輸出する際には、農林水産省が発行するGMP証明書や、ISO22000といった国際的な食品安全規格の認証書など、定められた衛生・安全基準を満たしていることを証明する手続きが改めて規定されました。これからタイへの輸出を検討する、あるいは取引を拡大する事業者は、こうした規制の詳細をJETROや農林水産省の最新情報を常に確認し、適切に対応していく必要があります。WAGYUが世界を旅した歴史的背景そもそも、タイはどうやって和牛の遺伝子を手に入れたのでしょうか。実はそこには、アメリカやオーストラリアを経由した壮大な旅がありました。全ての始まりは1970年代から90年代。当時はまだ規制が緩やかで、研究目的などで日本の和牛の生体や遺伝子が合法的にアメリカへ輸出されました。アメリカの生産者たちは、この貴重な遺伝子を現地のアンガス牛と掛け合わせることで、霜降りと赤身のバランスが良い「American WAGYU」を開発。これが商業的に大成功を収めます。その後、日本が和牛を国の重要な遺伝資源として輸出を厳しく制限すると、世界中の生産者はWAGYUの遺伝子をアメリカに求めるようになります。次に動いたのが、広大な土地と高い畜産技術を持つオーストラリアです。成功を収めていたアメリカからWAGYUを輸入し、大規模な生産を開始。瞬く間に世界最大のWAGYU供給国へと成長しました。そして現在、タイのような国がWAGYU生産を始める際には、このオーストラリアから遺伝資源を輸入するのが主流となっています。簡単に言うと以下のような流れです。地域・国主な出来事・特徴日本→アメリカ日本の和牛の生体・遺伝子が緩やかな規制のもと合法的にアメリカへ輸出アメリカアメリカの生産者が和牛遺伝子をアンガス牛と交配し、「American WAGYU」を開発し大成功日本・アメリカ日本が和牛遺伝子輸出を厳格に規制、世界中の生産者がアメリカ経由で和牛遺伝子を入手するようにオーストラリアオーストラリアがアメリカから和牛遺伝子を輸入、大規模生産開始。世界最大のWAGYU供給国へタイおよびアジア各国タイなど新興国がオーストラリアから遺伝資源を輸入し、WAGYU生産を開始日本から始まった和牛の血統が、アメリカ、オーストラリアと渡り歩き、世界に広まっていった、これが「血統ロンダリング」とも呼ばれる、WAGYUが持つグローバルな歴史の真相なのです。WAGYUは今後も世界の高級食肉市場の中核を担う今後も「WAGYU」は、世界の高級食肉市場の中核を担い続けるでしょう。その理由は、日本の「本物の和牛」が持つ圧倒的なブランド力タイ産WAGYUのような海外産が担う市場拡大の役割という、二つの強力なエンジンがあるからです。まず、日本の和牛は、その繊細な霜降りや唯一無二の食体験から、世界中の富裕層にとって憧れの的であり続けます。希少性が高く、他の追随を許さない最高級品として、市場全体の価値を引き上げる旗艦の役割を果たします。一方で、タイ産WAGYUは、より広い層に「WAGYU体験」を届ける重要な存在です。タイの気候に適応し、コストを抑えながらも和牛の血統を受け継ぐ高品質な牛肉は、現地の高級レストランやホテルにとって欠かせない食材となっています。さらに、サステナビリティへの取り組みや純血種の生産も始まり、その価値は年々向上しています。このように、日本の和牛が創り上げた最高級のブランドイメージを頂点としながら、タイ産WAGYUなどがその裾野を世界に広げていく。この両輪がある限り、WAGYUは多様なニーズに応え、高級食肉市場の主役であり続けると予測されるでしょう。WAGYUと和牛の違いは?タイ事例で解く定義・歴史・展望を徹底解説:まとめ本記事で解説した「タイ和牛」が、日本の和牛をルーツに持ちながら独自の発展を遂げてきた歴史を、改めて振り返ってみましょう。1970年代:国の政策として和牛導入がスタート(主に交雑用)。1990年代:暑さに強い在来種やブラーマンと掛け合わせることで、タイの地に定着。2010年代:世界的な日本食ブームと連動し、高級和牛としてブランド化を達成。2020年代:純血繁殖や循環型農業との組み合わせで、「タイ産和牛」ブランドを確立しつつある。このように、タイ和牛は日本の遺伝子を受け継ぎながらも、タイの気候、文化、市場の中で磨き上げられた、独自の物語を持つ牛肉です。もしレストランで「WAGYU」の文字を見つけたら、それは単なる牛肉ではなく、日本の和牛が世界を旅して生まれた、その国ならではの物語を持つ牛肉なのかもしれません。それぞれの違いを知ることで、食の楽しみがさらに広がるはずです。